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トップページ>自由投稿>非リベラル国家宣言の背景 寺尾 信昭

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非リベラル国家宣言の背景

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  • ―ハンガリーのユダヤ人問題と新保守主義の系譜―

                              寺尾 信昭

はじめに                  >>> pdf

1 移民導入政策とユダヤ人の同化      >>> pdf
      新保守主義の台頭

2 大戦下のユダヤ人問題アンケート     >>> pdf

3 ヤーシ・オスカルのユダヤ人論      >>> pdf
      戦後革命のイデオローグとしてのヤーシ

4 アディ・エンドレのユダヤ人論      >>> pdf

5 新保守主義の系譜            >>> pdf
      体制転換後

6 非リベラル国家宣言           >>> pdf
     ストップ・ソロス法
     結語にかえて

人名解説                 >>> pdf

Background to the Declaration of Illiberal State (summary)     >>> pdf




5 新保守主義の系譜
モーチによれば、1918年から1924年にかけて、およそ35万人が旧領土からの避難民に認定されているが、実数は42万人を超えていた。その最大グループ(42.9%)は国家機関に再就職を希望する下級官吏で、第二のグループ(34.4%)は商工業従事者ないし小商人や職人であった(1)。
敗戦後、国土が三分の一に縮小したハンガリーで、将来の見通しが立たない避難民が見たものは、特定分野におけるユダヤ人の寡占状態であった。例えば、1920年当時、全国の自由業の三分の一から六割(2)、都市の小規模事業者の三分の二はユダヤ人であった(3)。加えて、ブダペストの二階建て建造物の38.2パーセント、三階建ての47.2パーセント、六階建て以上の57.5パーセントが彼らの所有であった(4)。ユダヤ人(1920年時、47万3355人、総人口の5.9%)と避難民(推定42万6000人、総人口の5.3%)の社会・経済的な軋轢を、「ユダヤ人社会の犠牲の上にキリスト教徒の幸福を追及する」という政治思想に変えた決定的要因は、戦後継起した二つの革命、とりわけユダヤ人が「過剰に」参加した(5)ソビエト共和国のトラウマだった。
ホルティ・ミクローシュ提督の「国民軍」がブダペストに入城した二週間後の1919年11月30日、覚醒ハンガリー人連合(6)は大会決議として、創設者の一人であるザーカーニ・ジュラ(30歳のカトリック司祭)の提案を採択した。一つはユダヤ人をパレスチナへ移送するか、人口比に従って文明国に配分すること。二つにはユダヤ人の所有する全ての食糧と燃料を、キリスト教徒に分配するというものであった(7)。
第一次大戦後の新保守主義の系譜は、セクフューの『三世代』とトルマイ・セシルの『亡命者の書』、及びサボー・デジェーの『廃村』が基底をなす。1921年7月、クレベルスベルグ・クノー宗教・教育相はセクフュー宛の書簡で、「貴台の『三世代』やトルマイの『亡命者の書』に具現されたキリスト教精神でもって、『ニュガト;西方』と対決して欲しい。ハンガリー人の精神は、世紀転換期の四半世紀に西欧思想が蔓延した結果、軟弱になってしまった」と書いた(8)。
セクフューが『三世代』を出版した1920年末は、大戦後に継起した革命と反革命、及びトリアノン条約でハンガリー社会が混迷し、国民が新たなアイデンティティを模索していた時期である。このような国民の欲求に応えて、彼は避難民のルサンチマンをすくい上げ、「移民を同化してハンガリー人人口を増やし、もう一度ハンガリー人を多数派にする」(9)という移民政策を、リベラル幻想と断罪した。
我国のリベラル幻想は、ロシアやポーランド系ユダヤ人の流入の第一歩を、他の国では考えられないほど容易にした。アジア的状態にあったガリツィアやロシアのユダヤ人が、カルパチア山脈を越えてやって来た。[中略]彼らは快適な環境に狂喜して、民族衣装(カフタンの意)を脱ぎ捨て、日常生活に困らない程度のハンガリー語を習得した。するとリベラル派は、彼らがすぐにも良きハンガリー人に、ハンガリー民族の一員になれると考えた。何世代も前から定住するユダヤ系市民のように、あるいはハンガリー土着の古い家系の貴族や農民のように(10)。
我々は移住者たちに、上辺だけの急激な外形的変貌を要求した。内面を見ずに、衣服や日常語といった外観の変化に満足して、我々は惨めな過ちを犯した。[中略]我々は民族性と言語を取り違えていた。ハンガリー語でのおしゃべりがハンガリー人の民族性であり、ハンガリー人風の外見をしておれば不滅の民族精神が宿っていると思い込んでいた(11)。
ネーメト・ラースローの言を借りれば、「カトリック人民党にハンガリーの再生を託した」(12)セクフューは、リベラル幻想が歴史的ハンガリー国家解体の一因であると考え、その責任をユダヤ人に転嫁した。加えて彼は、中欧の都市文化を「ユダヤ資本主義とユダヤ系知識人の皮相な産物である」(13)と見る一方、ユダヤ人社会がリベラル幻想を利用して、ブダペストを彼らの根拠地にしたと説く(14)。
そうした見地からセクフューは、東方ユダヤ人にはシオニズムに従いパレスチナへ帰ること、また改革派ユダヤ人にはマイノリティ原理に基づいて「異化」することを要求した。この文脈でセクフューは、東方ユダヤ人の移住制限を提唱したイシュトーツィ・ジェーゼー(カトリックでジェントリ出身)と、彼がティサエスラール事件を機に結成した全国反ユダヤ党を評価した。すなわち、「イシュトーツィは正しい認識に基づいて、東方ユダヤ人の移住制限を何年にもわたって要求し続けた。全国反ユダヤ党は東方ユダヤ人の流入と資本主義の蔓延に対して、手工業者や小規模農業者の利益を擁護した。しかし、ハンガリーの病理はユダヤ人問題にあるとの診断を下すだけで、断固たる処置や社会・経済的な展望を欠いていた。それゆえ、ハンガリーの反ユダヤ主義は蕾の内に摘み取られたのである」と(15)。社会的緊張をユダヤ人の流入や彼らの旺盛な経済活動に帰する全国反ユダヤ党の政治思想は、カトリック人民党や農業者同盟に継承され(16)、セクフューの『三世代』に集約された(17)。
世紀転換期の新保守主義は「東方ユダヤ人の流入とハンガリー人の国外流出」を短絡させたが、第一次大戦後は「革命とユダヤ人」を同一視した。トルマイはユダヤ人をロシア革命(ボルシェヴィズム)の伝令と見た。「トロツキーやラデックやヨッフェは、ブダペストに住むユダヤ人の親戚だ」と彼女は言い切る(18)。
何十年にもわたりガリツィア・ユダヤ人の侵入を受けたブダペストは、巨大な胃袋みたいだった。そのブダペストが今、吐き気をもよおすような状態にある。[中略]シリア人(ユダヤ人の意。ドイツの人種理論に基づく表現)らしき顔と体形をした群衆の間で、赤いハンマーやプラカードが宙に舞った。フリーメイソンや女性解放論者、ジャーナリストやガリレイ・サークルの会員、場末のカフェの常連客や株取引所の連中が、表通りに出て来て混乱を引き起こしている。ドブ通りのゲットー出身の兵士たちが、赤・白・緑の民族色をほどこした帽章を付けて行進している(19)。
トルマイはこれにドイツの匕首伝説を加味した。「恐れていた事が現実になった。敵は私たちの中に潜み、前線で出来なかったことを我国で実現しようとしている。敵はフリーメイソンの学術団体であり、国際主義的な自由思想の巣窟と化した高等専門学校だ。そこで結成されたガリレイ・サークルの会員は、大半がユダヤ人青年である」と(20)。ここで指弾されたフリーメイソンの学術団体が、ヤーシに代表される社会科学協会であることは明白である。
トルマイの計算によれば、共和国革命の母体となった国民会議は、財閥出身のハトヴァニュ・ラヨシュを筆頭とする11名のユダヤ人と、カーロイ・ミハーイ伯爵を含む8名の「罪深い」ハンガリー人で構成された(21)。そして、「革命政府には3名、否、実質的には5名のユダヤ系閣僚がいる」と彼女は指摘する(22)。5名のユダヤ系閣僚とは、市民急進党のヤーシ(6歳の時、一家で改宗)とセンデ・パール、それに社会民主党のクンフィ、ガラミ・エルネー、及びディネル=デーネシュ・ヨージェフである。確信的な反ユダヤ主義者らしく、トルマイは人名の後に括弧して旧姓を併記した。(『ユダヤ・レキシコン』には、クンフィ(棄教者と明示)とセンデとディネル=デーネシュの記載はあるが、ヤーシとガラミの名前はない(23)。)
トルマイの攻撃の矛先は、名門貴族のカーロイではなく、「あまり頭の良くない伯爵」(24)に知恵をつけるヤーシに向けられた。ヤーシが共和国革命の首謀者だった。「我国を東方のスイスに再編しようとするガリツィア出身の国際主義者」は、ハンガリーのあらゆる文物を憎んでいる(25)。まるで意図的に、全てを破壊せんとするかのように(26)。だが彼は、「ハンガリーについて語る時、自分の種族への配慮も怠りない(27)。」すなわち、有機的統一体たるハンガリーに「東方のスイス」構想を押し付けて、ガリツィアに隣接する東北部の「マーラマロシュやベレグ、ウング、ウゴチャなど豊かな森を持った諸県を、独立させようと企てている」と彼女は言う(28)。
トルマイは大戦後の政変を「ネズミ革命」(patkanyforradalom)、11月16日の共和国宣言を「ネズミ騒動」(patkanylazadas)、またソビエト共和国末期の記述では、一連の革命家を「ネズミども」(patkanyok)と表した(29)。これは明らかに、ガリツィア・ユダヤ人を「虫のように増殖し、雀のように機略に富み、ネズミのように破壊的だ」と断じたバルタの著書を踏襲した表現である。こうしたトルマイのユダヤ系に対する強烈なハンガリー人意識は、ホスト社会の民族主義に過剰に同化したマイノリティ出身(トルマイはドイツ系)の知識人に共通する、「改宗者的情熱」に他ならないとコヴァーチ(Kovacs M. Maria)は分析する(30)。
第二次大戦後、『亡命者の書』は発禁処分を受け、図書館でも閲覧禁止になった。しかし、体制転換後の1998年には、ハンガリーでも再刊された。復刻版の表紙に描かれた、思案顔のトルマイと10名のユダヤ人革命家(経済学者のヴァルガや哲学者のルカーチ・ジェルジを含む)の間に、伝統的な農民服を着た人物が吊るされている。
ジョン・ルカーチの表現を借りれば、ハンガリーで最初の「知的反ユダヤ主義」作家(31)たるサボー・デジェーは、『廃村』をソビエト革命中の1919年5月に上梓した。この小説で彼は、「真のハンガリー人は農村にいる」という農民神話を創作した。サボーにとって、都市は腐敗した外国人の生活空間であった。彼は内なる敵として、ユダヤ系資本家やドイツ系将校、スロバキア系及びドイツ系聖職者、それに大貴族を含む「同化した外国人」を挙げた。とりわけ、外国出身の経済エリートによる「ハンガリーの植民地化」は、オーストリアによる植民地化とパラレルであった。こうした観点から、サボーは農民と耕作ジェントリにのみ民族精神を認めた。トランシルバニアのジェントリ出身である『廃村』の主人公は、一度は都会で暮らしたが、居心地の悪さを感じた。ハンガリーを堕落させた大貴族や外来集団と対峙した彼は、農民の中へ飛び込み、民族的純潔さの象徴である農民娘と結婚して村の復興に献身する。歴史的ハンガリーの周縁部を失った第一次大戦後のユダヤ人論では、「罪深いブダペスト」と対峙するサボーの「農村」が最もイデオロギー的であった。
1930年代の農村人民作家の理論的支柱であったネーメトは、自由主義が伝統的エリートを衰微させたと説くセクフューの理論を借用しながら、有機的なサボーの農村概念を発展させ、「深遠なハンガリー人」と「浅薄・皮相なハンガリー人」という二項対立的なハンガリー人像を考案した。浅薄・皮相なハンガリー人とは、ハンガリー社会の無機質なブルジョア化を助長したドイツ系やユダヤ系市民の意である。彼は深遠なハンガリー人の転落原因を、都市に住む新来のハンガリー人の「植民地主義」に見出した。『マジャールオルサーグ』紙に寄稿した「俗物と農民」(1934年3月29日)というエッセイによれば、俗物とは、まるで植民地にでもいるかのようにハンガリーで暮すユダヤ人を指す。彼らはハンガリー人の関心事にはほとんど興味を示さず、パリやロンドンに憧れ、西欧文明をひけらかす(32)。他方、農民とは、西欧的教養と無縁な知識人や農村人民作家を意味する。ネーメトにとって、親西欧主義を鼓吹し共和国革命を企てたハトヴァニュは、浅薄・皮相なハンガリー人の代表であった。彼はアディ・エンドレのみならず、ユダヤ人法に反対した作家のモーリツ・ジグモンドや作曲家のバルトーク・ベーラを「半ユダヤ人」と呼んだ(33)。



体制転換後
二十世紀末の体制転換後、新保守主義の持つ扇動機能は二人の作家によって表明された。一人はチョーリ・シャーンドルであり、もう一人はチュルカ・イシュトヴァンである。
与党民主フォーラム(Magyar Demokrata Forum)の理論誌『ヒテル;信用』(1990年9月号)に掲載されたチョーリのエッセイは、トルマイの『亡命者の書』を真似てか、日付の入った日記の形式を取る。問題となったのは、「ハンガリー人の痛みを共感できるドイツ系市民はハンガリー国民の一員であるが、アウスグライヒ後に移住してきたユダヤ人にはハンガリー人の痛みが分からない」(34)といった排除の論理や、「第一次大戦で同化ユダヤ人との共生は終った」との歴史認識、そして、今や「ユダヤ人による逆同化」が始まったとする7月3日付の記述である。
アディの周りにハトヴァニュやヤーシらユダヤ系の知識人が集まり、それぞれの関心事を共有した。ユダヤ人がハンガリー民族の死活問題を真剣に考えたのは、アディの時代が最後だった。その頃のユダヤ人はハンガリー語だけでなく、その背後にあるハンガリー人の痛みまでも学び取った。だが、ソビエト共和国の赤色テロルやホルティ時代の白色テロル、とりわけホロコーストを経験したことによって、彼らはハンガリー人との精神的連帯感を失った。[中略]現在、逆同化傾向が次第に顕著になりつつある。すなわち、リベラル派のユダヤ人がハンガリー人を思考や行動様式で「同化」しようとしている。このために彼らは、今まで作れなかった議会用の跳躍台を作ったのだ(35)。
逆同化目的でリベラル派のユダヤ人が作った政治的跳躍台とは、ヤーシの市民的急進主義を継承する自由民主連盟(Szabad Demokratak Szovetsege)のことである。「自由民主連盟の友人たちは新たな政治的民族概念の形成を望んでいるが、それは古い感傷に裏打ちされたものではなく、法律や経済学や市場の知識に基づく冷徹な良識によってである」とチョーリは言う(36)。ここで「古い感傷」を代表するのは、隣接諸国の同胞の民族的自己喪失(37)にハンガリー人の死滅を予感する民主フォーラムのチョーリであり、在外同胞の窮状に共感できない「冷徹な良識」は、自由民主連盟のリベラル派ユダヤ人のものであった。
ハンガリー人が死滅するかも知れないという予感は、隣接諸国の同胞の民族的自己喪失のみならず、民族の活力を削ぐ共産党政権の作為によっても助長された。
カーダール体制は[中略]1956年革命が提起した多くの要望を実現したが、我々を道義的に救った革命の高邁な精神をこの民族から奪った。彼らはラーコシ時代よりも家庭生活や限定的な自己実現や私生活のための余地を与えた。しかしながら、こうした私的領域に自由を拡張する一方で、生命力そのものを削いだ。唯一残されたのは、生物学的生存である(38)。
その危機感を、彼は次のように吐露した。
我々ハンガリー人は世界中に離散し、深刻な人口減少に見舞われている。在外同胞も母国にいる我々も、日々「平和な日常の中の戦争」という新たな事態によって衰弱しつつある。フランス人もイギリス人も、イタリア人もロシア人も、自分の民族が翌日までに死滅するかも知れないという事態を想像できないだろう。しかし我々ハンガリー人には、そうした事態が起きるかも知れないのだ。我々はまるでテロリスト集団のような、我々自身の人口統計に付きまとわれている(39)。
一方、民主フォーラムの副党首であったチュルカは、1992年8月20日、同党機関紙に執行部を批判する論説を掲載して(40)、翌年6月に除名された。その後、正義・生活党(Magyar Igazsag es Elet Partja)を立ち上げた彼は、「ハンガリーの資本主義は外国人が主導した。東方から百万の移民が流入して、文化や金融や商工業の指導的地位を奪った。歴史的支配階級である中小貴族を自国民から引き離し、退廃させた。農民が自国で生きていけないほど搾取した」と、イシュトーツィばりのユダヤ人論を展開する一方(41)、ニューヨークのユダヤ人やイスラエルは「金融政策でハンガリー人の生活基盤を奪い、ハンガリー人を自滅に追い込む勢力だ」と断じた(42)。
正義・生活党という党名の生活(elet)とは、民族の活力であり、チョーリが「今日、ハンガリー人とは何か」というエッセイで言及した生命力の意である。チュルカは民主フォーラム執行部を批判した上記論説を、「生命の輝き、これこそ今我々が必要とする言葉だ(Elet! Ez most a hivo szo)」と締めくくっている。
二一世紀初頭、ヨッビクJobbik(Jobboldali Ifjusagi Kozosseg右翼青年同志会の略称)はこうしたチョーリやチュルカの生命観と民族論を継承した。彼らは、戦後教育が伝統的な価値観を「プロシア的」ときめつけ、ないがしろにしてきた結果、ハンガリーは権威を無視する不健全な国になったと難じる一方(43)、体制転換後は「開かれた社会」というウルトラ自由主義のせいで、家族の絆や民族的アイデンティティや愛国心が希薄になったと嘆じた(44)。そこで彼らは、歴史や伝統が持つ力の「再発見」にハンガリーの復活を託す。
我々はハンガリーの将来を、家族や生まれ故郷や教会や民族といった、伝統的な共同体の力を再発見することの中に見る。[中略]より豊かなハンガリーを欲するなら、我々が共有するルーツを再発見しなければならない。個人としてではなく、先人たちの事績を共有する民族として、我々は世界に誇れる存在になれるのだ(45)。
彼らにとって誇るべきは個人でなく、あくまで民族であった。
チョーリやチュルカやヨッビクは、民族の活力を削ぐ国内の勢力、あるいは外国と結託した集団を「内なる敵」と見なす。彼らの歴史認識においては、歴史的移民たるユダヤ人とロマ人である。
ヨッビクは政党としての成長過程で、正義・生活党から多くの政治資本を受け継いだ。第一には人材である。(初代党首のコヴァーチ・ダーヴィッドは正義・生活党の出身である。)しかしながら、ヨッビクが正義・生活党の失敗(46)から学んだ最大の教訓は、チュルカの露骨な反ユダヤ主義を綱領に明示しないことであった。彼らは2006年の綱領に、大規模な移民の流入による文化変容から伝統的共同体を防衛すべく、移民反対を明記し(47)、翌年の人口減少対策で、「社会的同化が出来ない集団の大量移民に反対する」と表明した(48)。中東からの難民が流入する以前に、彼らが移民反対を標榜したのは、ユダヤ人やロマ人といった歴史上の大量移民を念頭に置いてのことである。
ロマ人は十五世紀後半、武器の製造や拷問に従事する奴隷としてハンガリー史に登場する。マリア・テレジア(ハンガリー女王)は1761年、彼らを「新ハンガリー人」として同化を図った。息子のヨーゼフ二世は1783年、すなわちハンガリー系ユダヤ人に対する寛容令の発布と同じ年に、「ロマ人の子供は四歳になると農民の養父母に預ける。里親に対しては十年間、養育費が支給される」との勅令を発した。ロマ語を使用すれば罰則として「二四回杖で打たれ」、同族結婚も厳禁であった(49)。
1970年代には二割であった彼らの失業率が、1990年代の中頃には七割台に達した。それは経済の自由化で未熟練工がまっ先にリストラされた結果である。加えて、今世紀半ばにはハンガリーの総人口(現在、約995万人)が800万人に減少すると予測されているのに対して、ロマ人は倍増し、人口比が15パーセントに達すると見られている。ロマ人はハンガリー国家の福祉政策に「寄生」しているとの福祉ショーヴィニズムが、悪化する経済状態の中で小市民や労働者層に激情のはけ口を提供した。
2011年5月、ヨッビク国会議員のコヴァーチ・エニケー(カルヴァン派牧師、ヘゲドゥシュ・ロラント夫人)は、北部ヘヴェシュ県のいわゆる「ジプシー犯罪」地区を憎悪集団が「制圧」した事件に言及して、ロマ人はイスラエルがハンガリーを征服するための「生物学的兵器」であると論じた(50)。すなわち、ロマ人やユダヤ人は、イスラエルによるハンガリー植民地化計画の協力者と見なされたのである。ハンガリーの悲劇とユダヤ人を短絡させる新保守主義の扇動機能は、体制転換後はイスラエルのハンガリー征服という新たな「ユダヤ人問題」を生み出した。ソロス系NGO(非政府組織)を国家安全保障への脅威と捉えるフィデス政権と議会も、この文脈に位置づけられる。
 



注 5 新保守主義の系譜

(1) Mocsy, The effect of World War I, pp. 494-495.
(2) 1920年の統計によれば、ジャーナリストの34.3パーセント、弁護士の50.6パーセント、医師の59.9パーセントはユダヤ系であった。Ezra Mendelsohn, The Jews of East Central Europe between the World Wars (Bloomington: Indiana University Press, 1987), p. 101.
(3) Janos, Hungary: 1867-1939, p. 169.
(4) Thomas Karfunkel, "The impact of Trianon on the Jews of Hungary", Bela K. Kiraly・Peter Pastor・Ivan Sanders eds., Essays on World War I: Total war and peacemaking, a case study on Trianon (New York: Brooklyn College Press, 1982), p. 468.
(5) ソビエト共和国の人民委員のユダヤ人比は、70パーセント前後が定説である。
(6) 覚醒ハンガリー人連合は、文官や知識人や学生で構成された。モーチによれば、29名の指導者の内、14名は旧領土の生まれか、敗戦当時旧領土に居住していた者であった。Mocsy, op. cit., p. 222, n. 34.
(7) Gratz Gusztav, A forradalmak kora: Magyarorszag tortenete 1918-1920[革命時代] (Budapest: Magyar Szemle Tarsasag, 1935), pp. 254-255.
(8) クレベルスベルグ宗教・教育相のセクフュー宛書簡[1921年7月23日]Lacko Miklos, Korszellem es tudomany 1910-1945[時代精神と学問](Budapest: Gondolat, 1988), p. 73.
(9) Szekf?, Harom nemzedek[三世代]初版p. 289. 復刻版p. 331.
(10) Ibid., 初版p. 289, 復刻版p. 330.
(11) Ibid., 初版pp. 289-290, 復刻版p. 331.
(12) Nemeth Laszlo, Szekf? Gyula[セクフュー・ジュラ] (Budapest: Bolyai Akademia, 1940), p. 62.
(13) Szekf?, op. cit., 初版p. 296. 復刻版p. 339.
(14) Ibid., 初版p. 292. 復刻版p. 334.
(15) Ibid., 初版pp. 304-305, 復刻版pp. 348-349. 全国反ユダヤ党は綱領で、農業経営者と農業労働者の利益を保護するため、ユダヤ人の経済活動を制限し、刑法を厳罰化し、中世のユダヤ人宣誓を復活させ、キリスト教徒との婚姻を認める法案を廃棄し、ユダヤ人社会が管理する住民登録簿を行政当局に移管するよう要求した。Merei, A magyar polgari partok programjai[二重主義体制下の政党綱領集]pp. 145-146.
(16) Romsics, Magyarorszag tortenete a XX. szazadban[二十世紀のハンガリー史]pp. 73-74, Hungary in the twentieth century, p. 58.
(17) Peter Hanak, "The anti-capitalist ideology of the populists", Joseph Held ed., Populism in Eastern Europe: racism, nationalism, and society (Boulder: East European Monographs, 1996), p. 150.
(18) Tormay Cecile, Bujdoso konyv[亡命者の書](Budapest: Gede Testverek, 2003. 初版は第1巻が1920年、第2巻は1922年), vol.1, "Feljegyzesek 1918-1919-b?l"[共和国革命期の覚え書]p. 40.
(19) Ibid., pp. 13-14.
(20) Ibid., p. 38.
(21) Ibid., p. 12.
(22) Ibid., p. 77.
(23) Ujvari ed., Magyar zsido lexikon[ユダヤ・レキシコン]pp. 202, 517, 837.
(24) Tormay, op. cit., p. 26.
(25) Ibid., p. 113.
(26) Ibid., p. 112.
(27) Ibid., p. 113.
(28) Ibid., p. 144.
(29) Ibid., pp. 102, 116, 466.
(30) Maria M. Kovacs, "Hungary", Kevin Passmore ed., Women, gender and fascism in Europe 1919-45 (New Brunswick, New Jersey: Rutger University Press, 2003), p. 87, n. 12.
(31) J. Lukacs, Budapest 1900. Bilingual edition, 英語版p. 169.
(32) Nemeth Laszlo, "Sznobok es parasztok"[俗物と農民]Nagy Sz. Peter ed., A nepi-urbanus vita dokumentumai 1932-1947[都会派と農村人民派の論争資料](Budapest: Raketa Konyvkiado, 1990), p. 57.
(33) Nemeth, Szekf? Gyula[セクフュー・ジュラ]p. 62.
第一次ユダヤ人法が衆議院で審議されていた1938年5月5日、バルトークや農民出身の作家モーリツ・ジグモンドら61名の著名な文化人が、「民族の良心に訴える」と題する抗議声明を出した。声明は、「ユダヤ人の法の下での平等を否定し、彼らの市民権を剥奪することで、キリスト教徒の生存を保障しようというのであれば、それはキリスト教徒の尊厳を貶めるだけだ」と、法案を批判した。Karsai Laszlo ed., Befogadok: irasok az antiszemitizmus ellen 1882-1993[受容者の親ユダヤ文献](Budapest: Aura Kiado, 1993), p. 80.
(34) Csoori Sandor, "Nappali hold"[真昼の月]Csoori Sandor, Nappali hold[真昼の月](Budapest: Puski, 1991), p. 255.
(35) Ibid.
(36) Ibid., p. 256.
(37) Csoori Sandor, "Mi a magyar, ma?"[今日、ハンガリー人とは何か]Csoori, Nappali hold[真昼の月]p. 151.
(38) Ibid., p. 149.
(39) Ibid., pp. 153-154.
(40) 民主フォーラム機関紙Magyar Forum[1992年8月20日]Csurka Istvan, "Nehany gondolat a rendszervaltozas ket esztendeje es az MDF uj politikai programja kapcsan"[民主フォーラムの新綱領に関する雑感](http://mandiner.hu/cikk/20120204_csurka_nehany_gondolat_ rendszervaltozas_ MDF).
(41) 正義・生活党機関紙Magyar Forum[1994年8月18日]Csurka Istvan, "Bevandorlok diadalmenete"[東方移民の凱旋パレード](http://www.eredetimiep.hu/index.php?optim-com_ content&view=article&id-6598:in-memoriam-csurka-istvan&catid=41:hirek<emid=63).
(42) 正義・生活党機関紙Magyar Forum[1998年2月5日]Csurka Istvan, "Minden, ami van"[あるもの全て]。Kovacs Andras, A keznel lev? Idegen. Antiszemita el?iteletek a mai Magyarorszagon[最近ハンガリーの反ユダヤ主義](Budapest: PolgArt, 2005) V. Fejezet[第五章](http:www.econ. core.hu/file/download/ kovacsandras.pdf), p. 9.
(43) Jobbik, "Radikalis valtozas. A Jobbik orszaggy?lesi valasztasi programja a nemzeti onrendelkezesert es a tarsadalmi igazsagossagert"[ヨッビクの2010年綱領](http://jobbik.hu/ sites/default/files/jobbik-program2010gy.pdf), p. 48.
(44) Jobbik, "Alapito nyilatkozat: Jobbik Magyarorszagert mozgalom"[ヨッビク結党宣言](http://jobbik.hu/rovatok/egyeb/alapito_nyilatkozat), p. 1.
(45) Ibid., pp. 2-3, 4.
(46) 正義・生活党は1998年の総選挙で十四議席を獲得したが、四年後には議席を失い、「第三の道」という名でヨッビクと共通名簿を作成した2006年の総選挙でも敗北した。
(47) Jobbik, "A Jobbik 2006-os rovid programja"[ヨッビクの2006年綱領](http://jobbik.hu/ rovatok/ egyeb/a_jobbik_2006-os_rovid_ programja), p. 2.
(48) Jobbik, "Bethlen Gabor program"[ヨッビクの2007年綱領]"Sokasodjatok!"[産めよ殖やせよ] (https:// jobbik.hu/sites/jobbik.hu/down/File/Bethlen_Gabor_program.pdf).
(49) Dupcsik Csaba, A magyarorszagi ciganysag tortenete: Tortenelem a ciganykutatasok tukreben, 1890-2008[ハンガリー系ロマ人の歴史](Budapest: Osiris Kiado, 2009), pp. 51-52.
(50) Kuruc[2011年5月2日]Heged?s Lorantne, "Az orszaghoditok harcmodorarol Gyongyospata kapcsan"[征服者たちの戦略](https://kuruc.info/r/7/78468/).
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