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トップページ>自由投稿>非リベラル国家宣言の背景 寺尾 信昭

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非リベラル国家宣言の背景

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  • ―ハンガリーのユダヤ人問題と新保守主義の系譜―

                              寺尾 信昭

はじめに                  >>> pdf

1 移民導入政策とユダヤ人の同化      >>> pdf
      新保守主義の台頭

2 大戦下のユダヤ人問題アンケート     >>> pdf

3 ヤーシ・オスカルのユダヤ人論      >>> pdf
      戦後革命のイデオローグとしてのヤーシ

4 アディ・エンドレのユダヤ人論      >>> pdf

5 新保守主義の系譜            >>> pdf
      体制転換後

6 非リベラル国家宣言           >>> pdf
     ストップ・ソロス法
     結語にかえて

人名解説                 >>> pdf

Background to the Declaration of Illiberal State (summary)     >>> pdf




3 ヤーシ・オスカルのユダヤ人論
社会病理としての土地問題や民族問題に光を当てたヤーシは、ユダヤ人の同化過程における否定的な側面を、「狭量なハンガリー民族主義の最も執拗かつ無慈悲な先兵」、ないしは「封建貴族と金融資本の無節操な階級支配の道具」と規定した(1)。彼は1912年の著書で、封建遺制を支える「大所領の管理人と高利貸と民族的転向者」(三者ともユダヤ人を示唆する)を断罪したが(2)、「異民族支配の共犯」という彼のユダヤ人論は、1920年代の著書にも受け継がれている(3)。
こうした用語法のせいであろう。ヤーシはまるで「人種主義者のような口調で」ユダヤ人の寄生的行動を、農村住民に対する高利貸の悪影響を、富裕層の享楽主義や不道徳を、更にはブダペストのユダヤ系知識人の過失や欠陥を言いつのった、とヴァーゴー(Bela Vago)は指摘する(4)。ハナーク(Hanak Peter)によれば、このような自己否定的な反ユダヤ主義は、十九世紀末に教育を受けた同化ユダヤ人の子弟の間では珍しくなかった。それは東方からのニューカマーに自らのルーツを見た同化二世、三世の知的自己防御であったとハナークは分析している(5)。
ヤーシは「貴族階級や教権主義に従順な協力者」であった産業ブルジョアジー(6)とも、官僚化したジェントリとも異なる、市民的エートスを持った新中間層(7)に期待した。彼らが標榜する市民的急進主義は、この勤労中産階級の「物質的・精神的・道徳的生産性向上運動であり、これらの生産力を組織化し発展させ、不労所得を廃絶すること」を目的とした(8)。ヤーシはこの文脈で、「ユダヤ系勤労知識人によるユダヤ的寄食生活の抑制」を、ユダヤ人問題の理性的な解決と見た(9)。東方ユダヤ人の流入問題については、1917年3月の「ロシアの民主主義革命が、ユダヤ人問題を平和的な同化精神でもって、西欧民主主義諸国のように苦もなく解決するだろう。これによって中欧が、中でもハンガリーが真っ先にユダヤ人問題から最終的に解放される」と論じた(10)。ロシアの民主化によって東方ユダヤ人の流出が止まり、ハンガリー系ユダヤ人は東方ユダヤ人に煩わされることなく同化に専念できる、との意である。ジュルジャーク(Gyurgyak Janos)はこれを、当時の「左翼知識人の幻想」と呼ぶ(11)。
戦後革命のイデオローグとしてのヤーシ
伝統的な抑圧体系に自由や民主主義や進歩の源泉たる「ヨーロッパ文化」と、当時フリーメイソンの間で広まっていた土地分配による「生産性の向上」をもって対峙したヤーシは、「封建的大土地所有」や「高利貸的資本主義」といった不労所得の否定を「リベラル社会主義」と称した(12)。彼はそうした不労所得の廃絶に、社会進化の契機があると考えた(13)。共和国革命後、急進党は社会民主党と共同で農地改革案を作成したが、そこでヤーシは不労所得たる地代を社会に還元すべく、百パーセントの土地課税を主張するヘンリー・ジョージの学説を紹介した。ヤーシが主宰するフリーメイソンの会員で、急進党綱領の起草者でもある社会民主党指導部のクンフィ・ジグモンドはこれを支持し、ヴァルガ・イェネーも「実践的には唯一可能な解決策である」と評価した(14)。
不労所得の廃絶という理念は、マルクス主義のプロレタリア国際主義における「国家の死滅」に例えられよう。その理念の担い手は市民的エートスを持った勤労知識人(ラテイネル)であり(15)、地方・農村においては「健全な家族経営」の自営農であった。ヤーシは両者に公民(シトワイアン)の政治的機能を求めたが、急進党はそうした農民を組織するだけの基盤を地方・農村に持たなかった。
とまれ、ヤーシは大所領の解体と土地分配、及び普通選挙制度の導入でもって、民族問題が解決できると確信していた。彼は「自営農の創出と協同組合化」というデンマーク・モデルの農地解放と、「民族自決と連邦化」というスイス・モデルの民族解放でもって、国家再編を構想した。民主主義原理に基づく「分離の上の再組織化」という理念は、「人は民族が解放されて初めて国際主義に到達できる」(16)という彼の信念に裏打ちされていた。しかし、それが領内諸民族の聖なるエゴイズムや農民の土地飢餓とどう調和するのであろうか。この点、諸民族のエゴイズムや農民の土地飢餓は、二十世紀初頭の世界的な革新思想の中で解決されるべき「封建制の負の遺産」に過ぎない、と彼は楽観的であった。
ヤーシらは自由主義の最先端に位置し、進歩と革新を信じた世代である。そのためか、英米先進国の民主主義を過大評価した。大所領を解体することで、農村の民主化が「アメリカ並みのスピード」で普及すると信じていた(17)。強権的な異民族支配をやめれば(18)、自発的な同化が「土の香りのする農村的な価値」をその国の文化に注入すると説いた(19)。だが、ケンデ(Kende Peter)が言うように、彼らの運動には「生活の匂い」さえしなかった(20)。彼らは、あくまで都市の知識人であった。
ユダヤ人問題アンケートにチョルノキは、「ハンガリー社会に融合できない東方ユダヤ人の流入が、ユダヤ人問題の原因だ」と回答した。アーゴシュトンも、「東方からのニューカマーを短期間で文明化するだけの力が古参のユダヤ人社会にないこと、またハンガリー人も彼らを融合するだけの能力を持ち合わせていない」ことが問題の核心だ、との認識を示した。彼らにとってのユダヤ人問題は、東方ユダヤ人の非同化であった。
他方、コンチャはユダヤ系エリートの譲歩による歴史的中産階級の復権を提案し(21)、後述するセクフュー・ジュラは、東方ユダヤ人にはシオニズム(パレスチナへの移住)、改革派ユダヤ人にはマイノリティ原理に基づく「異化」を提案した(22)。これらは同化ユダヤ人に対する不服表明であった。(戦間期の新保守主義は、東方ユダヤ人の非同化よりも、改革派ユダヤ人の同化を民族的アイデンティティの危機と捉えた、とサボー・ミクローシュは指摘している(23)。)ヤーシらを念頭に、「誰だって自国の新参者に批判されたくはないだろう」という土着主義的なコシャーリ・ドモコシュの不快感は(24)、新保守主義の系譜に共通した心情である。
こうしたユダヤ人論の中で最も扇動的なのが、ハンガリー人の国外流出と東方ユダヤ人の流入を短絡させた、農業者同盟の政治手法である。(これは移民の受け入れと失業者の増大を絡める、現代ポピュリズムの先駆である。)建国千年祭を機に台頭した民族主義のうねりの中で、世論形成に「大衆運動を組織し、社会的デマゴギーや近代的宣伝技術を駆使する」新保守主義が、ユダヤ人に対する憎悪を助長した。ヤーシらの市民的急進主義は、こうした新保守主義への対抗力として誕生した。封建遺制を批判する彼らは産業界と「近代化」で一致したが(25)、父親世代の愛国的同化戦略と対立した。



注 3 ヤーシ・オスカルのユダヤ人論
(1) Oscar Jaszi, The dissolution of the Habsburg monarchy (Chicago / London: The University of Chicago Press, 1971. 初版は1929年), p. 174.
(2) Jaszi Oszkar, A nemzeti allamok kialakulasa es a nemzetisegi kerdes[国民国家の形成と民族問題](Budapest: Grill Karoly Konyvkiadovallalata, 1912), p. 512. ここで言う転向者とは、「ハンガリー国家という搾取構造に最も適合した者」を指す。Jaszi, Magyar kalvaria magyar foltamadas[ハンガリー人のゴルゴタ、ハンガリーの復活]ミュンヘン版p.156, ブダペスト版p.160, 英語版p. 189.
(3) 「農村ユダヤ人はハンガリー人の手先であり、郡長や村書記や憲兵隊の補助部隊である」というアントン・シュチファーニク(独立後、チェコスロバキアの教育相)の回答("A zsidokerdes Magyarorszagon"[ユダヤ人問題アンケート]p. 139)は、『ハプスブルク帝国の崩壊』に引用された。Jaszi, The Dissolution of the Habsburg Monarchy, p. 175.
(4) Bela Vago, "The attitude toward the Jews as a criterion of the Left-Right concept", Vago・Mosse eds., Jews and Non-Jews in Eastern Europe, p. 32.
(5) Hanak Peter, Jaszi Oszkar Dunai Patriotizmusa[ヤーシ・オスカルのドナウ愛国主義](Budapest: Magvet? Konyvkiado, 1985), p. 10.
(6) Jaszi, Magyar kalvaria magyar foltamadas[ハンガリー人のゴルゴタ、ハンガリーの復活]ミュンヘン版p. 88, ブダペスト版p. 88, 英語版pp. 75-76.
(7) ユダヤ人社会の28パーセントが新中間層であったことを考えれば、ヤーシが勤労知識人(ラテイネル)にリベラル社会主義を期待したとしても不思議ではない。Ranki Gyorgy ed., Magyarorszag tortenete: 1918-1919, 1919-1945[ハンガリー史第8巻](Budapest: Akademiai Kiado, 1978), p. 786.
(8) Jaszi Oszkar, Mi a radikalizmus?[急進主義とは何か](Budapest: Orszagos Polgari Radikalis Part Kiadasa, 1918), pp. 17-18.
(9) Jaszi, Magyar kalvaria magyar foltamadas[ハンガリー人のゴルゴタ、ハンガリーの復活]ミュンヘン版p. 157, ブダペスト版p. 160, 英語版p. 189.
(10) "A zsidokerdes Magyarorszagon"[ユダヤ人問題アンケート]p. 100.
(11) Gyurgyak, op. cit., p. 503.
(12) Jaszi, Mi a radikalizmus?[急進主義とは何か]p. 13.
(13) Richard Edwin Allen, Oscar Jaszi and radicalism in Hungary, 1900-1919(コロンビア大学未公刊学位論文、1972年)pp. 334-335.
(14) Varga Jen?, Foldosztas es foldreform Magyarorszagon[土地分配と農地改革](Budapest: Nepszava, 1919), p. 50.
(15) Jaszi, Mi a Radikalizmus? pp. 6-7.
(16) Jaszi Oszkar, A nemzetisegi kerdes es Magyarorszag jov?je[民族問題とハンガリーの将来] (Budapest: Galilei Kor, 1911), p. 27.
(17) Jaszi, A nemzeti allamok kialakulasa es a nemzetisegi kerdes[国民国家の形成と民族問題]pp. 512-513.
(18)以下は1912年の著書『国民国家の形成と民族問題』の要約である。「領内諸民族はまだハンガリー人より弱体であるが、もはや彼らとの妥協は避け難い。それゆえ、我々は領内諸民族の子弟を強権的に同化するよりも、民主的な議会を必要とする。ルーマニアの農村でハンガリー国歌を合唱させるよりも、結社の自由が必要だ。スロバキアの町でハンガリー語を話す書記よりも、農地解放が先決だ。ハンガリー経済を発展させるためには、ルーマニアやスロバキアの農村にあるハンガリー語表記の看板を喜んで撤去しよう。」Ibid., p. 494. 「スロバキアの町でハンガリー語を話す書記よりも」の書記は、原文では郡長(szolga- biro)であるが、中央政府派遣の郡長ではなく、郡長が地元で採用する領内諸民族出身の「ハンガリー語が話せる書記」の方が文脈に沿っているので、シュガー(Peter F. Sugar)の訳に従う。Peter F. Sugar ed., Eastern European nationalism in the twentieth-century (Washington: The American University Press, 1995), p. 207.
(19) "A zsidokerdes Magyarorszagon"[ユダヤ人問題アンケート]p. 98.
(20) Kende Peter, Az en Magyarorszagom[私のハンガリー](Budapest: Osiris Kiado, 1997), p. 108.
(21) Concha Gy?z?, "A gentry"[ジェントリ](1910), Concha Gy?z?, A konzervativ es a liberalis elv: valogatott tanulmanyok 1872-1927[コンチャ・ジェーゼー選集](Mariabesny??Godoll?: Attraktor, 2005), pp.152-153.
(22) Szekf? Gyula, Harom nemzedek: egy hanyatlo kor tortenete [三世代:ある没落時代の歴史] (Budapest: "Elet" Irodalmi es Nyomda R. T. Kiadasa, 1920). 増補版の復刻版Szekf? Gyula, Harom nemzedek es ami utana kovetkezik[三世代とその後](Budapest: Maecenas, 1989), p. 444.
(23) Hanak ed., Magyarorszag tortenete 1890-1918[ハンガリー史第7巻]p. 953.
(24) Dominic G. Kosary, A history of Hungary (New York: Arno Press & The New York Times, 1971. 初版は1941年), p. 345.
(25) 新保守主義への対抗力たるヤーシらの運動が、その急進性にもかかわらず財界から経済的援助を受けられたのは、封建遺制を打破するという両者の暗黙の合意があったからである。Mario D. Fenyo, Literature and political change: Budapest, 1908-1918 (Philadelphia: The American Philosophical Society, 1987), p. 20.
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