トップページ>巻頭言

SCHOLAR ERRANT

ギャラリー

トップページ>自由投稿>非リベラル国家宣言の背景 寺尾 信昭

草稿から掲載まで

1. 和文草稿段階
2. 和文投稿
3. 英文草稿段階

論文作成の手引き

研究者のエッセイ
論文作成一般について
海外投稿について

書評論壇

書評

他分野における注目すべき動向

非リベラル国家宣言の背景

  >>> pdf

  • ―ハンガリーのユダヤ人問題と新保守主義の系譜―

                              寺尾 信昭

はじめに                  >>> pdf

1 移民導入政策とユダヤ人の同化      >>> pdf
      新保守主義の台頭

2 大戦下のユダヤ人問題アンケート     >>> pdf

3 ヤーシ・オスカルのユダヤ人論      >>> pdf
      戦後革命のイデオローグとしてのヤーシ

4 アディ・エンドレのユダヤ人論      >>> pdf

5 新保守主義の系譜            >>> pdf
      体制転換後

6 非リベラル国家宣言           >>> pdf
     ストップ・ソロス法
     結語にかえて

人名解説                 >>> pdf

Background to the Declaration of Illiberal State (summary)     >>> pdf




2 大戦下のユダヤ人問題アンケート
法学者でソビエト共和国(1919年)期に外務人民委員と司法人民委員を務めたアーゴシュトン・ペーテルは、1917年3月、『ユダヤ人の針路』と題する著書で、同化を完成させれば反ユダヤ主義はなくなると考え、「ユダヤ人問題の解決は、改革派の決断にかかっている。改革派はホスト社会に融合するか、それともユダヤ民族主義に合流するか、答えなければならない」と論じた(1)。加えて彼は、「肉体労働を可能な限り避けようとする」東方ユダヤ人にとって、「ホスト社会は搾取の対象たる植民地である」と書いて物議を醸した(2)。
  アーゴシュトン(1917年当時、43歳)によれば、ユダヤ人社会には近代化に順応しようとする非ユダヤ的ユダヤ人と、伝統を墨守するユダヤ的ユダヤ人が存在するが、現下の問題は、近代化した非ユダヤ的ユダヤ人が「東方から流入するユダヤ的ユダヤ人を短期間で文明化するだけの力がないこと、またハンガリー社会も彼らを融合するだけの能力を持ち合せていない」点にある(3)。このような状態が続けば、「ハンガリー系ユダヤ人社会が非文明化するのは必至である。そうなれば領内諸民族の数を一つ増やすことになるゆえ、ハンガリー人にとっては危険きわまりない(4)。」そこで彼は当面のユダヤ人問題を、ハンガリー社会に同化しようとしない「不適応ユダヤ人」の問題、あるいはキリスト教徒のみならず、近代化に順応しようとする非ユダヤ的ユダヤ人をもこの地上から一掃せんとする「狂信的な」ユダヤ的ユダヤ人の問題であると定義し、非ユダヤ的ユダヤ人に「思考や倫理や感性が全く異なるユダヤ的ユダヤ人」と関係を断つよう提言した(5)。
  アーゴシュトンの著書が出版された二ヵ月後、市民的急進主義を代表するヤーシ・オスカル(同、42歳)は、150名近い有識者にユダヤ人問題について質問し、その回答を主宰する『二十世紀』に公表した。ヤーシがアンケートを実施した理由は、十九世紀末以降、ハンガリー社会がユダヤ人問題をタブー視してきた結果、ユダヤ人社会もリベラル派も、蔓延する反ユダヤ主義に対して歯止めがきかなくなったと判断したからである(6)。
  ユダヤ教改革派副代長のメゼイ・フェレンツ(同、57歳)やラビ養成学院長のブラウ・ラヨシュ(同、56歳)、またブダペスト近郊ウーイペシュトのラビであるヴェネティアネル・ラヨシュ(同、50歳)、更には『平等』の編集長サボルチ・ラヨシュ(同、28歳)ら改革派の指導的面々は、ユダヤ人問題を解決済みであると理解していた(7)。「我々はユダヤ教徒のハンガリー国民だ」というメゼイ・モール(同、81歳)の回答が(8)、改革派の基本的スタンスであった。
  サボルチは1917年6月、非改宗の閣僚、ヴァージョニィ・ヴィルモシュの司法相就任を彼らの愛国的同化運動の賜物であると誇らしげに論じ、「我々はよそ者ではない。ここが我々の祖国だ」と書いた(9)。しかし、二年三ヵ月後、すなわちソビエト共和国崩壊直後から続出する改宗者に対して、棄教を思いとどまるよう訴えなければならなかったのは(10)、改革派の同化戦略のジレンマに他ならない。1929年に出版された『ユダヤ・レキシコン』が、混合婚の禁止を強調したのは、その反映である(11)。
  『平等』はブダペストに4万の購読者を擁し、反ユダヤ主義やシオニズムだけでなく、正統派やアーゴシュトンの上掲著書、あるいは『ニュガト;西方』を主宰するハトヴァニュ・ラヨシュ(同、37歳)の親西欧的な進歩主義や、ヤーシらの市民的急進主義と対峙した。もっとも、シオニズムに対しては正統派も、第一回シオニスト大会直後の1897年9月8日、改革派の代表と合同で次のような声明を出した。
  パレスチナに新たなユダヤ人国家を建設せんとする政治的シオニズムは、常軌を逸した危険な狂信主義である。[中略]ユダヤ教徒からユダヤ民族を創造せんとするシオニズムは、ハンガリーでは決して支持されないだろう。ユダヤ教徒のハンガリー人は存在するが、ユダヤ民族は存在しない。この点では、改革派も正統派も意見が一致している(12)。
  自身もキリスト教に改宗していたハトヴァニュ(13)は、同化の促進とハンガリー社会への完全な融合を求めて混合婚を提唱した。「ユダヤ人問題は、これによって一気に解決する」と彼は確信していた。それゆえ、「全ての開明的なユダヤ人の父親は、我が子をキリスト教徒として育てる義務がある」と書いた(14)。これに対してメゼイ・フェレンツは、改宗しても人種的反ユダヤ主義はなくならないと説いた(15)。
  ハトヴァニュの従妹でヤーシと再婚したレスナイ・アンナ(16)(同、32歳)も、ユダヤ人問題解決の一つに混合婚を挙げた。ユダヤ人の親はホスト社会の習慣に従って子育てすること、すなわち、子供を「ユダヤ的風習や歌謡、特異な行動、それに頭脳や財力をひけらかす横柄さから守らなければならない。しかし、子供たちの前でユダヤ的出自を否定すべきではない」と(17)。
  トランシルバニアの著名な文学一家出身のベネデク・マルツェル(同、32歳)は、東方ユダヤ人に対して、「彼らはハンガリー農民の百倍も保守的で、千年経っても今日と同様、伝統や分離的な自治に固執するだろう。三世代、四世代後に文化的なユダヤ人と合流するのは、彼らの上層部だけだ」と否定的であった(18)。ハトヴァニュやレスナイが提唱した混合婚についても、「ホスト社会への融合が改宗なしに実現すれば最善であるが、果してそれが混合婚によって実現できるだろうか。学識豊かなユダヤ人が農民娘と一緒になったところで、うまく行く訳がない。子供たちが父親の鼻の形や母親の民度の低さを引き継がないことだけは確かであるが。しかし、教養のあるユダヤ人とキリスト教徒のカップルなら、感性の豊かさや身体的な特徴が新たな個性を生み出し、双方にとって良きものになろう」と過剰な同化には懐疑的であった(19)。
  かつて『ニュガト;西方』に寄稿し、ユダヤ系知識人と親交のあったリトーク・エンマ(同、49歳)は、「国際主義からユダヤ人はハンガリー人を敵視し、ジェントリの活動を邪魔する。現在ジェントリの精神活動が停滞ぎみなのは、このためである。しかしながら、あらゆる外圧を排して古典的自由主義の原則に従い、ユダヤ人に対して自発的に平等権を与えたのは、この階級である」と論じる一方(20)、大戦下の反ユダヤ感情の一例として、ユダヤ人社会は危機意識を共有しておらず、徴兵を忌避できなかったり、兵役を義務と見なす者を「世渡り下手」と馬鹿にする風潮があると書いた(21)。リトークの指摘に関して言えば、『ユダヤ・レキシコン』は1922年に政府が公表したハンガリー人兵士の戦死者(15万5799名)とユダヤ人兵士の戦死者(5116名)の数値から、キリスト教社会の戦死者の比率(2.8%)がユダヤ人社会の戦死者(1.1%)の二倍以上であることを認めた(22)。
  民族派のチョルノキ・イェネー(同、47歳)は、バルタやアーゴシュトンと同様、「二種類のユダヤ人」の存在を指摘した。一つはハンガリー化したユダヤ教徒であり、今一つは「くずれたドイツ語」(イディッシュ語の意)を話す「低俗・無知な」ガリツィア・ユダヤ人である。前者は純粋に宗教集団であるが、後者は「奇妙な」長衣をまとい、側頭部に「趣味の悪い」巻毛をほどこした民族集団である。彼らは家庭を顧みず、男も女もカフェに入り浸り、路上を徘徊し、店頭にたむろする。そのため、子供たちのしつけが放置されている。これは由々しき事態だ、と移民文化に対して嫌悪感を露わにした。彼らと「人種的に別系統」である同化ユダヤ人がこの問題を解決できれば良いが、それが出来ないところにユダヤ人問題の危険性がある、とチョルノキは説く(23)。
  それゆえ、このような「低俗・無知な東方ユダヤ人の移住を、あらゆる手段でもって阻止しなければならない」と彼は続けた。移住後も同化しないユダヤ人は「民族」と見なす。これは既に市民権を持つ非同化ユダヤ人についても同様だ。ハンガリーの伝統をないがしろにするコスモポリタンや国際主義を標榜する社会学者は、大部分がユダヤ人である。伝統的な美しさや偉大さや神聖さを愚弄し、侮蔑する作家や芸術家の大半はユダヤ人である。貴族の称号を手に入れることも、改宗することも必要ない。必要なのは、キリスト教社会の真の文化を学び、愛国的感情を次世代に教育することだ。ところが現実は、「ハンガリー社会に融合できない東方ユダヤ人が陸続と押し寄せ、我々がユダヤ人問題と呼ぶところの傷口を広げている」と彼は結論づけた(24)。
  保守派のコンチャ・ジェーゼー(同、71歳)も、「小規模な農業経営の大半がユダヤ人の工業者や金融業者の手に渡った結果、困窮したキリスト教徒が国外に移住せざるを得なくなった」と嘆くが、彼はチョルノキより冷静だった。コンチャによれば、1848年の反ハプスブルク革命でユダヤ人はハンガリー人と共に闘い、アウスグライヒ後は国民生活の水準を引き上げることに貢献した。彼らは他の領内諸民族よりも言語的に早く同化し、少数民族地域でハンガリー人の文化的・政治的代理人を務めた。大戦勃発後は、戦場でも銃後の福祉活動でも忠実に任務を果した(25)。
  ユダヤ人問題の原因は「世紀転換期のユダヤ人社会の変容にある」とコンチャは言う。すなわち、「ユダヤ人社会の若い世代が全く別方向を向くようになったからだ」と。それは明らかに、内部告発者たるヤーシの市民的急進主義や、ハトヴァニュが主宰する『ニュガト;西方』の親西欧主義を念頭においての発言である。コンチャにとって、西欧的価値観でもって伝統的なハンガリー文化を嘲弄するユダヤ人は「よそ者」であり「内なる敵」であった。彼の表現を借りれば、「ユダヤ人問題は世界観の問題」であり、民族精神に関わる問題である。コンチャの目には、キリスト教社会が王道を行くのに対して、ユダヤ人社会は覇道であった(26)。経済領域のみならず精神文化の領域にまでユダヤ人が進出してきたことで、知識階級としてのジェントリの指導的地位が危うくなった。これを見てコンチャは、ユダヤ系エリートの譲歩によるジェントリの復権を提案した。
  カルヴァン派の神学者で、戦間期のプロテスタントを代表するラヴァス・ラースロー(同、35歳)は、人種的観点から次のように書いた。「ユダヤ人は言語や名前や伝統、それにユダヤ教を含めた人種的特性を放棄しなければならない」が、正統派のラビや神学生の大半は、未だにハンガリー語を話さない。このため、私は人種的分離主義に固執するシナゴーグ(ユダヤ教の会堂)を認めない、と(27)。一方、シオニストの月刊誌『過去と未来』の編集長パタイ・ヨージェフ(同、35歳)は、「ユダヤ人問題の最大の原因は、愛国主義からキリスト教に改宗した者にも、差別が残ることだ。[中略]ハンガリー社会も外観は自由だが、内実は奴隷状態だ。それゆえ、真の内面的解放を得るために、ユダヤ人は人種的な意識を深化させねばならない」と説いた(28)。
  これに対して、カトリックの司教でキリスト教社会党の党首、ギースヴァイン・シャーンドル(同、61歳)は、「ユダヤ人問題は人種問題でも宗教問題でもなく、社会問題である」と断じた(29)。知的分野や医師や弁護士、あるいは商工業における寡占状態は、ユダヤ人の人種的特性ではなく、ユダヤ人社会における都市居住者の多さや、彼らの教育熱、及び上昇志向のゆえである(30)。ところが、ハンガリー人社会では、ジェントリや知識階級といった、社会上層部の子弟にしか教育の機会がない。それゆえ、こうした問題の処方箋は、「封建制の残るハンガリーの民主化以外にない。」民主化がユダヤ人の分離主義を解消し、農民や労働者階級の子弟に勉学の機会を与え、カルパート・ウクライナ人をはじめパーリア的少数民族を解放する、と論じた(31)。
  1905年、プロハースカの後援でカトリック人民党から分離したキリスト教社会党は、「資本が異教ならキリスト教化しなければならない」と、経済の民族的浄化を綱領に入れる一方(32)、社会問題の処方箋として、普通選挙権や小規模自営農への広範な土地分配を要求した(33)。1910年、人民党からキリスト教社会党に移籍したギースヴァインは、ユダヤ人問題アンケート直後の1917年6月6日、社会民主党や独立党から分離したカーロイ・ミハーイ党、及びヤーシの市民急進党やヴァージョニィの市民民主党と「普選ブロック」を結成し(34)、翌年10月には共和国革命(35)の母体となる国民会議に参加した。
  エレーニィ(Erenyi Tibor)は、ホロコースト期にユダヤ人の移送に反対した人々として、複数のカトリック司教やシュラフタ・マルギット(修道女)、及び数百名のユダヤ人をかくまい、自らも犠牲になったシャルカハージ・シャーラ(修道女)の名前を挙げているが(36)、こうした人々によってギースヴァインのユダヤ人論が継承されたと言えまいか。



注 2 大戦下のユダヤ人問題アンケート
(1) Agoston Peter, A zsidok utja [ユダヤ人の針路] (Nagyvarad: Tarsadalomtudomanyi Tarsulat, 1917), p. 8.
(2) Ibid., pp. 270, 296.
(3) Ibid., p. 6.
(4) Ibid., pp. 6-7.
(5) Ibid., pp. 8, 16, 296-297.
(6) Jaszi Oszkar, Magyar kalvaria magyar foltamadas. A ket forradalom ertelme, jelent?sege es tanulsaga[ハンガリー人のゴルゴタ、ハンガリーの復活:二つの革命の意義と教訓](Wien: Becs Magyar Kiado, 1920)ミュンヘン版(Munchen: Aurora Konyvek, 1969)pp. 155-156, ブダペスト版(Budapest: Magyar Hirlap Konyvek, 1989)p. 159. 英語版はOscar Jaszi, Revolution and counter-revolution in Hungary (New York: Howard Fertig, 1969. 初版は1924年), pp. 187-188.
(7) Nathaniel Katzburg, Fejezetek az ujkori zsido tortenelemb?l Magyarorszagon[ハンガリーの近代ユダヤ人史](Budapest: MTA Judaisztikai Kutatocsoport?Osiris Kiado, 1999), p. 159.
(8) "A zsidokerdes Magyarorszagon: a Huszadik Szazad korkerdese"[ユダヤ人問題アンケート]Huszadik Szazad (vol.18, no.2, 1917), p. 27.
(9) Szabolcsi Lajos, Ket emberolt?. Az Egyenl?seg evtizedei 1881-1931[『平等』紙の50年](Budapest: MTA Judaisztikai Kutatocsoport, 1993), pp. 201-202.
(10) Szabolcsi Lajos, "Szozat a kiter?khoz"[棄教者に告ぐ]Egyenl?seg[1919年9月18日]Gyurgyak Janos, A zsidokerdes Magyarorszagon: politikai eszmetortenet[ハンガリーにおけるユダヤ人問題:政治思想史](Budapest: Osiris Kiado, 2001), p. 237.
(11) Ujvari ed., Magyar zsido lexikon[ユダヤ・レキシコン]pp. 943-944.
(12) Venetianer Lajos, A magyar zsidosag tortenete. Kulonos tekintettel gazdasagi es m?vel?desi fejl?desere a XIX. szazadban[経済及び文化の発展から見た十九世紀ハンガリーのユダヤ人史](Budapest: Konyvertekesit? Vallalat, 1986. 初版は1922年), p. 318.
(13) 十八世紀末にモラヴィア(チェコ東部)から移住してきたハトヴァニュ家は、製糖業で財を成し、1908年に男爵位を授与された。
(14) "A zsidokerdes Magyarorszagon"[ユダヤ人問題アンケート]p. 93.
(15) Ibid., p. 26.
(16) レスナイの曽祖父は居酒屋であったが、祖父はアンドラーシ・ジュラ首相[1867-71年]の主治医を務め、1867年に貴族位を得た。裕福な銀行家で農場主でもあった父親は、ハトヴァニュ家の娘と結婚し、大貴族の社交場であるネムゼティ・カシノの会員になった。
(17) "A zsidokerdes Magyarorszagon"[ユダヤ人問題アンケート]p. 108.
(18)Ibid., p. 47.
(19) Ibid., p. 48.
(20) Ibid., p. 138.
(21) Ibid., p. 133.
(22) Ujvari ed., Magyar zsido lexikon[ユダヤ・レキシコン]pp. 562, 950.
(23) "A zsidokerdes Magyarorszagon"[ユダヤ人問題アンケート]pp. 71-74.
(24) Ibid., pp. 72, 74-75.
(25) Ibid., pp. 80-81.
(26) Ibid., pp. 81-83.
(27) Ibid., pp. 128-129.
(28) Ibid., pp. 116-117.
(29) Ibid., p. 85.
(30) Ibid., p. 86.
(31) Ibid., p. 87.
(32) Merei, A magyar polgari partok programjai[二重主義体制下の政党綱領集]p. 165.
(33) Ibid., pp. 165-166, 169.
(34) Romsics, Magyarorszag tortenete a XX. szazadban[二十世紀のハンガリー史]p. 109.
(35) 戦後革命の母体となった国民会議は、1918年11月16日、「ハンガリーは如何なる国にも属さず、独立した人民の共和国である」と人民決議第1条で宣言した。Magyar torvenytar: 1918. evi torvenycikkek es neptorvenyek[1918年法律集](Budapest: Franklin- Tarsulat, 1919), p. 201. ここで言う人民とは、歴史的ハンガリー領内の全ての諸民族の意である。
(36)Erenyi Tibor, A zsidok tortenete Magyarorszagon[ハンガリーにおけるユダヤ人の歴史](Budapest: Utmutato, 1996), pp. 89-90.
[2019.8.30up]

事務局:Scholar Errant 編集委員会
Email:journal.scholar.errant@gmail.com