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トップページ>自由投稿>非リベラル国家宣言の背景 寺尾 信昭

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非リベラル国家宣言の背景

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  • ―ハンガリーのユダヤ人問題と新保守主義の系譜―

                              寺尾 信昭

はじめに                  >>> pdf

1 移民導入政策とユダヤ人の同化      >>> pdf
      新保守主義の台頭

2 大戦下のユダヤ人問題アンケート     >>> pdf

3 ヤーシ・オスカルのユダヤ人論      >>> pdf
      戦後革命のイデオローグとしてのヤーシ

4 アディ・エンドレのユダヤ人論      >>> pdf

5 新保守主義の系譜            >>> pdf
      体制転換後

6 非リベラル国家宣言           >>> pdf
     ストップ・ソロス法
     結語にかえて

人名解説                 >>> pdf

Background to the Declaration of Illiberal State (summary)     >>> pdf




1 移民導入政策とユダヤ人の同化
オスマン帝国やハプスブルク帝国との長年にわたる戦闘の結果、歴史的ハンガリー領の人口が激減し、支配民族であるハンガリー人と領内諸民族の人口比が逆転した。ウィーン宮廷は過疎化したハンガリー領に南ドイツからカトリック教徒の農民を招致した。いわゆるシュワーベン人である。ハンガリー議会と歴代政府は、移民奨励策でもってこれに対抗し、人口比の逆転現象には領内諸民族への同化政策を据えた(1)。
1840年、ハンガリー議会は不可分の帝国の原理に基づき、ハプスブルク帝国内のユダヤ人に「居住の自由」を保障し、「ユダヤ教徒の若者を雇用して」産業振興を奨励する法律を発布した(2)。ネオログ;改革派ユダヤ人は同化政策に進んで応じた。彼らは、ヨーロッパの他の国々がユダヤ人を法的に束縛していた時期に、経済的・社会的発展の大きな機会を与えたハンガリー国家と緊密に一体化した。近代化を歓迎する改革派も、両親の信仰を受け継いで宗教的祭日を祝ったが、古い宗教戒律を守ることには拘泥しなかった。彼らはホスト社会の他の住民と同じような衣服を身に付け、同じような習慣を守った。ドイツ語とヘブライ語の混じりあったイディッシュ語に替えて居住地域の支配言語を使用し、伝統的習俗から離れて異教徒と結婚するケースが増えた。ハンガリーではユダヤ教が国家公認の宗教になった1895年以降、第一次ユダヤ人法案が上程された1938年までに、混合婚は23.9パーセントに上った(3)。(ちなみに、同化を否定するドイツのニュルンベルク法(1935年)をモデルに、ハンガリーの第二次ユダヤ人法(1939年)は、たとえキリスト教に改宗していても、両親や祖父母にユダヤ教徒がおれば市民権を剥奪した。)
これに対して、近代化や世俗主義を拒否する正統派やハシディズム派は、イディッシュ語を使用し続け、ラビ(ユダヤ教指導者)の周りに集住し、慣習的に既婚女性は剃髪し、男性はもみあげを切らなかった。近代主義と伝統主義の確執は、コミュニティを分断し、夫婦を離縁させるほど激しく、多くの暴力事件を引き起こした(4)。
ハンガリー系ユダヤ人社会の最大の特徴は、当局の中央集権的な監督を認めた改革派と、完全な自治を要求する正統派が独立した教団として併存したことである。改革派が主としてボヘミア・モラヴィア地方(現在のチェコ領)、並びにドナウ川中流域とそれ以西の大都市に居住したのに対して、正統派やハシディズム派は、ガリツィアやブコヴィナ(共にポーランド分割後オーストリア領)、及びトランシルバニアやカルパート=ウクライナ(共にハンガリー領)といったカルパチア山麓とそれ以東の、もっぱら農村地帯や小都市に集中した。それゆえ正統派やハシディズム派は、東方ユダヤ人と呼ばれる。
ハンガリーの東部は、経済的に後進的なガリツィアやブコヴィナと隣接していた。1900年のガリツィアのユダヤ人人口は約81万、ブコヴィナは9万余りである。両地域の後方には520万のユダヤ人人口を抱えるロシア帝国が控えていた。それゆえ、ハンガリーの背後には600万以上の東方ユダヤ人が存在したことになる。移民導入政策をめぐる1840年の議会で、ハンガリー国歌の作詞家ケルチェイ・フェレンツは、東北部へのガリツィア・ユダヤ人の流入を想定して、「乞食の大群が国土を埋め尽くすのは、ハンガリー人にとってもハンガリー系ユダヤ人にとっても望ましくない」と東方ユダヤ人の移住禁止令を提議した(5)。
  しかし、ヨーゼフ二世の寛容令(1781-83年)から第一次大戦までの「長い十九世紀」に、ハンガリーのユダヤ人人口は十倍以上膨張した(6)。ハンガリー語を母語とするユダヤ人は、1910年までに75.6パーセントに達した。ユダヤ人以外では、十八世紀にハンガリー中・南部とドナウ川西域に入植したシュワーベン人(ドイツ系)や、十二、三世紀にスロバキア北部に定住したチプス人(ドイツ系)並びにスロバキア人小貴族が、同化政策を積極的に受け入れた。
  ブダペストは十九世紀末でもドイツ語を話す街であったが、貴族化した経済エリートの一人コルンフェルド・モーリツは、「ユダヤ人はドイツ語を話すブダペストをハンガリー語化した」と書いた(7)。言語的同化と並行して、名前のハンガリー化も増えた。ティサエスラール事件(8)を機に創刊された、改革派の週刊紙『平等』の主筆サボルチ・ミクシャは、3000名のユダヤ人を改姓させたと言われている。ジョン・ルカーチ(John Lukacs)は、「東方起源の二人の青年(ハンガリー人のイムレとユダヤ人のローゼンベルグ)が、しっかりと手を握り合い、目を輝かせながら、共通の文化への献身と未来の存在を確認し合った」というバビッチ・ミハーイの小説を例に、世紀転換期の共生は「自由党の幻想以上のものであった」と書いている(9)。両者の共生は、封建エリートとユダヤ系経済エリートの黙示的同盟の成果であった。ティサエスラール事件の裁判中に、自由党党首のティサ・カールマン首相は、ユダヤ人は「ハンガリー社会で最も勤勉かつ建設的な人々である」と議会で証言し、反ユダヤ主義は「民族の名誉を傷つける、恥ずべき野蛮な行為だ」と警告した(10)。父親と同様、反ユダヤ主義に対して厳正であったティサ・イシュトヴァンは、1918年8月の議会で、ユダヤ人と戦時利得者を短絡させる風潮を遺憾だと表した(11)。
  ハンガリーの中産階級は大別して二集団ある。一方は土地を失い官僚化した中小貴族(ジェントリ)や中規模土地所有者、もう一方はドイツ系やユダヤ系を中心とする産業ブルジョアジーである。マックス・ウェーバーは『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(1905年)で、プロテスタントは実業的な教育を志向し、カトリックは教養的な教育を志向すると論じたが、企業家精神や経済的合理性は、ハンガリーのプロテスタントを代表する中小貴族(主流はカルヴァン派)には当たらない。ジェントリの子弟が国家機関に就職するため大学の法学部に進んだのに対して、ユダヤ人の子弟はもっぱら民間部門で働くため、技術系や経済系の高等専門学校を選択した。実学優先で経済的合理性を追求したのは、歴史的中産階級ではなく、新興中産階級を代表するユダヤ系やドイツ系市民であった。
  ウィーン宮廷がハンガリー貴族を戦略的パートナーに選んだように、ハンガリーの封建エリートはユダヤ系経済エリートを必要とした。ハンガリー貴族の最も恐れていたものが、農民の土地飢餓と領内諸民族の分離・独立運動であったことを考えれば、遠心的ベクトルを持たないユダヤ人が重用されたのは容易に理解し得る。
  では、なぜハンガリーの封建エリートはドイツ系市民と同盟しなかったのか。バラーニ(George Barany)によれば、ドイツ文化に対する彼らの劣等感と汎ドイツ主義への警戒心からである(12)。その意味で、同化ユダヤ人の任務は多重であった。同化ユダヤ人は領内諸民族の人口圧に対抗するだけでなく、近代産業の担い手として、またスラヴ系やドイツ系知識人への平衡力として期待された。
  ユダヤ系経済エリートが封建エリートの戦略的パートナーとして重用された十九世紀末に、中小貴族の経済的零落が加速した。1848年革命の農奴解放で賦役が廃止されたのに加えて、1850年代のクリミヤ戦争や1860年代の南北戦争による農業ブームが終ると、ヨーロッパ市場にロシアや北米産の安い小麦が大量に流入し、競争力のない小規模経営は破綻した。十九世紀半ばに3万あった彼らの所有地は、二十世紀初頭には三分の一以下まで減少した(13)。経済的に零落した中小貴族は国家機関に新天地を求め、イギリスの紳士階級をまねて自らをジェントリと称した。第一次大戦前の国家公務員の三分の一から二分の一、地方公務員の三分の二から四分の三がジェントリによって占められた(14)。官僚機構は、1909年には15万3000人に肥大化し、モーチ(Istvan I. Mocsy)によれば「合理的限度を超えて」いた(15)。
  このジェントリ国家の建設者こそ、リベラル派大貴族とアウスグライヒ容認派の中小貴族が合同して出来た自由党である。自由党政権下で、中央ではユダヤ系経済エリートとジェントリ官僚(宗教的にはプロテスタント)及び大貴族(主としてカトリック)が、官民の棲み分けを前提とする戦略的パートナーシップを形成した(16)。首都人口の四分の一近くを構成するユダヤ人が、20人以上の従業員を抱える工業経営者の八割以上、また全国の自由業のほぼ半数から六割を占めた(17)。金融資本や全国工業者連盟に属す346家族(26家族が男爵)が貴族の称号を授与されたが、その六割以上はハンガリーの産業革命期に当たる世紀転換期の二十年に集中している(18)。
  一方、少数民族地域では、異民族支配のジュニアパートナーとして、郡長や村書記と農村ユダヤ人の共生関係が形成された。世紀転換期に飛躍的な近代化を遂げたブダペストと異なり、封建遺制の色濃い地方では、アウスグライヒ(1868年)後も司法と行政が未分化なまま温存された。とりわけ議会も自治権も持たない郡では、司法と行政を一手に掌握する郡長が、町村選挙(町村長の立候補者は郡長の推薦を要した)や下級官吏(村書記)の任命、あるいは農業労働者の賃金にまで関与した。官僚制の中位に位置する郡長の八割以上は、ジェントリの出身であった(19)。
  同化政策が強権的な運動に変質してからは、少数民族地域で中間者的地位にあった農村ユダヤ人が、民族自決を標榜する諸民族への平衡力となった。少数民族地域の小さな町や村では、時として唯一ハンガリー語を話す農村ユダヤ人が、仲買人として「農民の買うもの全てを売り、農民が売るもの全てを買った(20)。」商人のみならず、医師や弁護士も同化政策の橋頭堡となった。この点に関してはマッキャグ(William McCagg)が、「ブダペストの改革派に加えて、地方の正統派ユダヤ人もルーマニア語やスラヴ語を捨て、ハンガリー語を母語とすることによって、領内諸民族との対決を選択した」と述べている(21)。ブラハム(Randolph L. Braham)も、ユダヤ人は少数民族地域でハンガリー化の先鋒と見られたと書いている(22)。ハイドゥ(Hajdu Tibor)の言葉を借りれば、農村ユダヤ人は常に、「専制的な」村書記や「暴力的な」憲兵隊将校と同行していた(23)。
  二重君主国の崩壊後、大貴族や上級官吏がいち早く逃亡した少数民族地域で、支配構造の末端において直接民衆と接触した下級官吏と共に、農村ユダヤ人が旧体制のスケープゴートにされたのは、このためである。戦間期、中央におけるパートナーシップは再建されたが、少数民族地域の大半を失った結果、周縁部における共生システムは再起動しなかった。
  十九世紀末、政府の移民政策やユダヤ系経済エリートへの優遇策に反対する農本主義、あるいはキリスト教民族主義(キリスト教社会主義と名乗ることもある)が登場した。産業革命と農業不況が交錯する中、封建エリートは産業推進派と、これに批判的な農本主義派に分かれた。農本主義派は、商品投機の制限や負債を抱えた農業者への補助など、政府が積極的に自由主義経済に介入して農業を保護するよう求めた。小規模生産者の零落を産業資本の犠牲と捉える農本主義は、「移動的資本」の世界主義に「定住的資本」の愛国主義を対置し、前者をユダヤ資本と同一視した。こうした対立は、「混乱と無秩序をもたらす」社会主義や、「外観を変えた貪欲な高利貸」たる資本主義と戦うよう指示した、教皇レオ十三世の回勅「レールム・ノヴァールム」(副題は「資本主義の弊害と社会主義の幻想」1891年)に担保されていた(24)。宗教界の先頭には、上記の回勅をハンガリー語に訳したプロハースカ・オットカル(セーケシュフェヘルヴァールの司教)と、近代主義を危険思想と見なしたピウス十世〔在位1903-14年〕の保守化路線を率先した、イエズス会修道士のバンガ・ベーラが立った。



注 1. 移民導入政策とユダヤ人の同化
(1) 1868年の少数民族法(法律第44号)は、領内諸民族に対して母語による教育権を保障していたが、1879年の教育法(法律第18号)は、全ての少数民族学校にハンガリー語の授業を義務づけた。同化政策は1907年のいわゆるアポニィ教育法(法律第26号)で頂点に達した。教育内容のハンガリー化を求めたアポニィ・アルベルト宗教・教育相は、ハンガリー民族主義を鼓吹する教科書のみを認可した。
(2) 1840年法律第29号(A zsidokrol[ユダヤ人について])。Gonda Laszlo, A zsidosag Magyarorszagon 1526-1946[ハンガリーにおけるユダヤ人](Budapest: Szazadveg Kiado, 1992), pp. 269-270.
(3) Vera Ranki, The politics of inclusion and exclusion. (New York / London: Holmes & Meier, 1999), p. 116.
(4) Lucy S. Dawidowicz, The golden tradition: Jewish life and thought in Eastern Europe (New York, Syracuse: Syracuse University Press, 1996), pp. 27-28. Livia Elvira Bitton, A decade of Zionism in Hungary, the formative years?the post World War I period: 1918-1928(ニューヨーク大学の未公刊学位論文、1968年)p. 110.
(5) Ujvari Peter ed., Magyar zsido lexikon[ユダヤ・レキシコン](Budapest: A Magyar Zsido Lexikon Kiadasa, 1929), p. 46.
(6) ユダヤ人の人口増加には、移住に加えて東方ユダヤ人の出生率の高さも寄与した。アウスグライヒ後の40年間、ユダヤ人の人口増加率(68.4%)はキリスト教徒の二倍であった。Robert A. Kann, "Hungarian Jewry during Austria-Hungary's constitutional period (1867- 1918)", Jewish Social Studies (vol.7, no.4, 1945), p. 380.
(7) Kornfeld Moric, Trianontol Trianonig: tanulmanyok, dokumentumok[論説・資料集](Budapest: Corvina Kiado, 2006), p. 188.
(8) 1882年4月1日、ハンガリー東北部の村ティサエスラールで、14歳のカトリック教徒の少女が失踪した事件に関連して、15名のユダヤ人が殺人と殺人幇助の罪で起訴された。ティサエスラールには25世帯のハシディズム派ユダヤ人が住んでいた。事件当日がユダヤ教の過越祭と重なったため、彼らに儀式殺人の嫌疑がかけられた。全員無罪となったが、この中傷事件はハンガリー系ユダヤ人に、フランスのドレフュス事件(1894年)に匹敵するほどの衝撃を与えた。
(9) John Lukacs, Budapest 1900. Bilingual edition (Budapest: Europa Konyvkiado, 2004), 英語版p. 189.
(10) Andrew C. Janos, "The decline of oligarchy. Bureaucratic and mass politics in the age of dualism (1867-1918)", Andrew C. Janos・William B. Slottman eds., Revolution in perspective. Essays on the Hungarian Soviet Republic of 1919 (Berkeley, Los Angeles: University of California, 1971), p. 36.
(11) Gabor Vermes, Istvan Tisza. The liberal vision and conservative statecraft of a magyar nationalist (New York: Columbia University Press, 1985), pp. 173, 430.
(12) George Barany, "‘Magyar Jew or Jewish Magyar?’ Reflection on the question of assimilation", Bela Vago・George L. Mosse eds., Jews and non-Jews in Eastern Europe 1918-1945 (Jerusalem: Israel Universities Press, 1974), p. 61.
(13) Berend T. Ivan・Szuhay Miklos, A t?kes gazdasag tortenete Magyarorszagon 1848-1944[ハンガリーの資本主義経済史](Budapest: Kossuth Konyvkiado / Kozgazdasagi es Jogi Konyvkiado, 1978), p. 141. Berend T. Ivan, Valsagos evtizedek. Kozep- es Kelet-Europa a ket vilaghaboru kozott[戦間期中・東欧の危機の時代](Budapest: Gondolat, 1983), p. 37. Ivan T. Berend, Decades of crisis. Central and Eastern Europe before World War II (Berkeley, Los Angeles / London: University of California Press, 1998), p. 27.
(14) Istvan I. Mocsy, The effect of World War I. The uprooted: Hungarian refugees and their impact on Hungary's domestic politics, 1918-1921 (New York: Brooklyn College Press, 1983), p. 73.
(15) Ibid.
(16) Romsics Ignac, Magyarorszag tortenete a XX. szazadban[二十世紀のハンガリー史](Budapest: Osiris Kiado, 2000), p. 72. Ignac Romsics, Hungary in the twentieth century (Budapest: Corvina-Osiris Kiado, 1999), p. 57.
(17) 1910年の統計によれば、ジャーナリストの48.4パーセント、医師の58.8パーセント、弁護士の61.5パーセントがユダヤ系であった。Andrew C. Janos, Hungary: 1867-1939. A study of social change and the political process(プリンストン大学の未公刊学位論文、1961年)pp. 168-169, fn. 67.
(18) William O. McCagg, Jr., "Hungary's ‘feudalized’ bourgeoisie", Journal of Modern History (vol.44, no.1, 1972), p. 74.
(19) Hanak ed., Magyarorszag tortenete 1890-1918[ハンガリー史第7巻]p. 451.
(20) Arthur J. May, The Hapsburg monarchy 1867-1914 (New York: The Norton Library, 1968), p. 243.
(21) William O. McCagg Jr., A history of Habsburg Jews, 1670-1918 (Bloomington: Indiana University Press, 1992), p. 190.
(22) Randolph L. Braham, The Politics of Genocide: The Holocaust in Hungary (New York: Columbia University Press, 1994), vol. 1, p. 11.
(23) Hajdu Tibor, A magyarorszagi tanacskoztarsasag [ハンガリー・ソビエト共和国] (Budapest: Kossuth Konyvkiado, 1969), p. 215.
(24) Rerum Novarum "Rights and duties of capital and labor" 第3節及び第15節 (http://w2.vatican.va/content/leo_xiii/en/encyclicals/documents/hf_l-xiii_enc_15051891_rerum_novarum.html), pp. 1, 5. ジョン・ルカーチによれば、1900年前後には「非ユダヤ人、非コスモポリタン、非マルクス主義者」を示唆する用語として、キリスト教徒という語が使われた。J. Lukacs, op. cit., p. 205.
(25) カトリック人民党綱領(1895年1月)は、第1条で民事婚の導入に、第2条でユダヤ教の公認化法案に反対した。Merei Gyula, A magyar polgari partok programjai (1867-1918)[二重主義体制下の政党綱領集](Budapest: Akademiai Kiado, 1971), pp. 148-149.
(26) Ibid., p. 148.
(27) Ibid., pp. 176-178.
(28) Bartha Miklos, Kazar foldon[ハザールの大地にて](Budapest: Stadium Kiado, 1939. 初版は1901年), p. 89. 同著は1996年、正義・生活党の出版社(Magyar Forum Kiado)から再刊された。
(29) Ibid., pp. 34, 90.
(30) Gratz Gusztav, A dualizmus kora: Magyarorszag tortenete 1867-1918[二重主義時代] (Budapest: Magyar Szemle Tarsasag, 1934), vol. 2, p. 58.
(31) Szabo Miklos, Az ujkonzervativizmus es a jobboldali radikalizmus tortenete (1867-1918)[新保守主義と右翼急進主義の歴史](Budapest: Uj Mandatum, 2003).
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