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  • □ 「剽窃」の幻影を克服しよう!:国際学術交流賛歌

                              百瀬 宏
 ひと昔前のこと、アメリカとイギリスにおける国際関係研究の発達史を扱った書物が出版されたことがある。その内容は、何のことはない、 アメリカとイギリスの研究者がこの分野でトップを切ってきた、という誇らしげな主張の学術書であったが、 ついでのことに他の国々における国際関係研究の発達と現況にも簡単に触れられてあった。その特徴づけにも興味深いものがあったが、 参ったのは、日本における国際関係研究を特徴づけた箇所であった。日本でも夥しい国際関係研究が行われている筈だが、国際的に見ると、 沈黙の巨大な塊だと言い放っていたからである。「黙っている馬鹿は利巧に見える」という諺は、日本にもあるが、 いやあ、何とも片腹痛いコメントではあった。それにしても、日本の研究者が沈黙の殻を破って国際的な学術交流の大海に乗り出そうとすれば、 当初はぶつかりやすい問題というものがありそうだが、その中でも、是非とも筆者が提起しておきたい事柄がある。 「今頃、寝言をいうな。貴方のような老世代と違って、もう私たち若い世代は外国語も流暢だし、どんどん国際交流をやっているよ」、 という方がいたら、ま、昔話として読んでほしい。
 早速だが、その昔話、それも自分自身の体験談から始めよう。私が生まれて初めて書いた単著は、 1970年に出版した『東・北欧外交史序説―ソ連・フィンランド戦争の研究―』(福村出版)と題する研究書であるが、 それは、北海道大学法学部附属スラブ研究施設の助教授であった私が、2年間にわたるフィンランド滞在中に書き上げた国際関係史の研究書で、 自分でいうのも変だが、かなり評判が良く、西洋現代史研究の第一人者として知られる村瀬興雄教授が長文の書評を寄せて下さったものである。 それを読んだある大学の助手は、「もうベタ褒めですね」といってくれたものである。 ところが、その書評文の最後に、村瀬先生が一言、この本がフィンランド人研究者の主張とどう違っているのか、を書いてほしかった、 と書いておられる箇所を読んで、顔から血の気が引く思いがしたことをまざまざと覚えている。
 そもそも村瀬先生は、あれだけの大学者であるにもかかわらず、凡そ研究書というものを書かれたことがなかった。 すぐれた歴史の概説書やご専門のドイツの歴史家の研究書の翻訳や紹介は夥しく発表されていて、 われわれ後進の研究者で先生の仕事のお世話にならなかった者はないくらいの状況であったが、研究書というものはお出しにならなかった。 その底には、当時の日本の西洋現代史研究の水準にたいする先生の認識があったわけである。大変に温厚な紳士という先生の風貌の底に、 そういう先生の厳しい認識が込められていることを知っていた私は、よほど頑張らなければ、という決意を新たにしたものである。 けれども、「決意」はしても、現実は無論、そんな甘いものではない。一生懸命現地語を習得して、史料館に通って原史料を読んで、 ということ自体、なかなか大変なことであるが、「史料の出現状況」というものを考えれば、もう絶望に等しいことであった。 私がフィンランドに日・フィン交換留学生の第一陣として、1966年夏に現地に赴いた時、まず耳にしたのは、フィンランド側がソ連側にたいして、 ソ連・フィンランド戦争(「冬戦争」とフィンランドでは呼んでいた)の背景について両国の史料の徹底的な相互調査をやろうではないか、という申し入れをした、 という事実であった。ところが、ソ連側からは、「時機尚早」というつれない返事が返ってきた。そして、その後どうなったかというと、間もなく、 フィンランドの戦間期以後の外交史料は、フィンランド人研究者にだけ公開するという規則が定まったのである。
 そもそも村瀬先生は、あれだけの大学者であるにもかかわらず、凡そ研究書というものを書かれたことがなかった。 すぐれた歴史の概説書やご専門のドイツの歴史家の研究書の翻訳や紹介は夥しく発表されていて、 われわれ後進の研究者で先生の仕事のお世話にならなかった者はないくらいの状況であったが、研究書というものはお出しにならなかった。 その底には、当時の日本の西洋現代史研究の水準にたいする先生の認識があったわけである。大変に温厚な紳士という先生の風貌の底に、 そういう先生の厳しい認識が込められていることを知っていた私は、よほど頑張らなければ、という決意を新たにしたものである。 けれども、「決意」はしても、現実は無論、そんな甘いものではない。一生懸命現地語を習得して、史料館に通って原史料を読んで、 ということ自体、なかなか大変なことであるが、「史料の出現状況」というものを考えれば、もう絶望に等しいことであった。 私がフィンランドに日・フィン交換留学生の第一陣として、1966年夏に現地に赴いた時、まず耳にしたのは、フィンランド側がソ連側にたいして、 ソ連・フィンランド戦争(「冬戦争」とフィンランドでは呼んでいた)の背景について両国の史料の徹底的な相互調査をやろうではないか、という申し入れをした、 という事実であった。ところが、ソ連側からは、「時機尚早」というつれない返事が返ってきた。そして、その後どうなったかというと、 間もなく、フィンランドの戦間期以後の外交史料は、フィンランド人研究者にだけ公開するという規則が定まったのである。
 さあ、これが及ぼした波紋は大変なものであった。それまで世界でフィンランドの現代史研究のトップを切っていたのは、 アメリカとイギリスの研究者であったが、その王座はいっぺんに崩れ、必死で自国の現代史研究に取り組むフィンランドの研究者がその座を独占するようになった。 これは、私から見れば、驚きの、そして絶望的な光景であった。その後、津田塾大学に赴任した私は、 ひたすら目当てのフィンランド現代史の原史料が外国人に公開される日を待ち続けた。漸くその日が来て、 1988年にフィンランドを訪れた私を迎えてくれたのは、しかし、1944年までの史料の公開であり、 私が狙っていたフィンランドの戦後史の史料公開ではなかった。そして、1989年春に帰国した私が知ったのは、 皮肉にもこの年から漸く戦後史の史料も外国人に公開される、というニュースであった。
 こうなると、もう意地である。もう勤務先での研究賜暇の権利を使ってしまっていた私は、以後、毎夏、休暇中にフィンランドを訪問して、 パーシキヴィ首相ついで大統領の戦後対ソ政策についての本を書き上げた。この本の中で、私は、パーシキヴィの日記の中に、パーシキヴィが、 自分の対ソ譲歩につけられた「現実主義」という形容を、それはソ連側が自分たちの利益に基づいて言い出したことだと言い切り、 フィンランドの占領を拒否する抵抗こそが自分たちの「現実主義」なのだと切り返している点に注目した。パーシキヴィ外交に対する私のこの評価は、 ヘルシンキ大学に職を奉じる歴史家クヤラ博士に注目され、パーシキヴィの次の大統領ケッコネンの外交にたいする彼の研究に応用される光栄に浴した。
 ここで一言いっておくと、わが国の西洋現代史(といっておこう)研究者が村瀬先生に抱かせた不満は、 「剽窃」という行為とは全く別物である。誠実に典拠となっている研究書・論文を明記してあれば、何も問題はない。 ただ、そういう史料上の独創性を欠いた研究が国際舞台で公開された時、反響は惨めなものとなる。 脳裏に焼き付いているのは、アメリカで開かれた国際的な研究会議で、あるアメリカ人の教授がフィンランド現代史をテーマにした研究を発表した時の光景である。 彼の報告の内容は、まさに今私が述べた範疇に入る研究であったが、いざ質問・討論の時間となった時、 フィンランド人の研究者が多数参加していた聴衆席は、まさに「海の沈黙」であった。その学会では例外的にそのままお開きとなった情景と、 発表者のアメリカ人教授の人のよさそうな笑顔は、私の頭にこびりついている。ただ、一言、念の為つけ加えておけば、もし、そこで、 その問題がアメリカを含む諸外国ではこう解釈されているとか、テーマと関連したアメリカを含む諸外国の未発見史料が論じられていれば、 事態は別であったろう。
 では、剽窃とは、何なのか。これも身近な一例を申し上げよう。もう大分以前のことになるが、日本とフィンランドの外交関係樹立を記念した催しで、 私は、日本初出の史料にも依拠した研究を発表した。ところが、その数日後、その会議に参加するために来日していたフィンランド人の歴史家が、 日本の代表的な英字新聞をもってきて私に見せたのである。 見ると驚くまいことが、私が会議で発表したと同じ内容の記事がその英字紙の記者の名前で掲載されているではないか。 それも上記の会議のことや、そこでの私の研究発表のことなど一言も書いてない。その記者がどうやって私の論考を手に入れたのか、 想像すればきりはないが、これが学界誌であったら、私は直ちに告発の手続きをとったであろう。けれども、相手は新聞記事で、 それも研究者が学問的生命を賭して書いたものではない。どう転んでも学界の問題ではありえないので、相手にするだけ損と考えてそのままにした。
 自分自身が関わった話題は種切れなので、範囲を広げよう。ここでも、上記と平行した筋書で話題を取り上げる。これももう、ふた昔は前のこと、 ある研究者が自分の博士論文をもとに出版した研究書について別の研究者が紹介・批評をする会合が開かれた。その著者もその場に出席していたが、 会場の空気は忽ち緊張を孕んだものになっていった。紹介・批評者が、先行研究からの引用部分を片端から取り上げて、独創性がないと主張したのである。 今でも、私には、その批評者の真意は判らないままである。「こういうことを言っているが、これは何某の記述に依拠」と、 そればかり取り上げて「報告終わり」となったのだが、ただ聞き流していると、その本を読んでいない出席者には、 「剽窃の糾弾」と聞こえても可笑しくない喋り方であった。そういう曖昧さをもった報告だったが、問題はそこにはない。 その話が、四半世紀も経た近頃、伝説化して持回られているという話を聞いた。これから研究者を心がける人びとは、用心に用心を重ねてほしい。
 ところで、時代をさらに遡ると、こんな話もある。学界のある長老の先生は、人柄は温順、後輩の面倒を良く見て下さり、 私なども頭が上がらない位お世話になったのだが、この先生は、学生の頃から「ひと(他人)の文章でも、感心すると、 書き写して(自分の論文として発表して)しまう」と仰っていた。それで、若い後輩同士は「私も使われたよ」と笑い合っていたものだが、 そのうち先生と接触がない研究者が出てくると、そうはいかなくなった。ある日の新聞に、「OO教授が剽窃の疑い」と題して、 先生の大きな写真入りで出てしまったのである。
 しかし、こんなことを古い記憶の中から引っ張りだしてこなければならない程、剽窃行為というのは論外の話なのである。 だが、同時に言っておかなければならないことは、不心得者は、現在でも、決して根を断ってはいないことである。 いや、今、まさに出てきているという情けない現状を報告しなければならない。私がじかに見聞したところであるが、 平和研究のメッカとして名高い広島市で私が直接見聞したのであるが、海の向こうからやってきた数名の「研究者」の集団は、 すでに既往の業績のある日本人の或る若手研究者に、自分たちが持ってきた英語の怪しげな「史料」(?)と、 その研究者が集めてきた広島・長崎に関連した史料の「交換と自由相互使用」を提案したそうである。その日本人研究者は、勿論ひっかからなかったが、 そういう輩がいるから困った話である。かりにも、こういう「若手研究者」が同じ国から来ている「真面な(まともな)」研究者と馴れあったらどんなことになるだろうと思うと、 私のような「戦後派」研究者はゾッとするのだが、如何ですか。
[2016.2.15up]

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